2014年11月12日水曜日

最近のこと・正直に生きる、ということ・処女性のこと・

今日はクレヨンのお絵かきを完了させました。

胎界主という漫画が相変わらず好きでして、更新を楽しみにしています。

色々やることがたくさんあって、すこーしパンクしていますが、やりたいことを何も考えずやればいいかなあとも思います。

12月6日のキルヒヘアのライブのために曲を考えたり、それとは別に牧場で曲を作ったり、沢山色々しています。

色々なことは1年前と殆ど変りません。たくさん変わっていきたい。


11月15日は定期演奏会、その日のたくらみも楽しみです。少人数で行う感じ。いつも見にきてくださる方本当にありがとうございます。新しく見にきてくださる方も本当にありがとうございます。自分たちの好きなことを好き勝手にやっているだけだけれど、やはりそれでも見てもらえるのは嬉しいことです。誰も知らないドラム缶の中で生まれて誰もしらないドラム缶の中で死んでいくのは生きていなかったことと等しいことです。
その日に1人で突発的にやってみたいことがあります。……誰にも言ってない(笑)

--------

インターネットで怖い話を読みあさるのが大好きなんですけど、最近見つけた面白いお話のなかで、正直に生きることが大事と書いてありまして、あっ、そうやって考えたいのにできていないなあと思いました。

わたしは小学生のころ、意味もわからずワールドイズマインを読んで、マリアにしびれました。
静岡にきてからウテナを見てウテナにしびれました。
それからなんだかマリアとウテナがぼくの理想で生きています。
どういうことかというと、優しさは傲慢とわかった上で傲慢を避けず優しさを実行してしまう傲慢さをもって生きることです。
つまり、優しくすることは傲慢だというのは理解すべき事柄ですがブレーキにすべき思考ではなくて、それを理由に行動をやめていくというのは「自分がやりたい」という衝動より「周囲にどう思われるか」を優先したエゴイスティックな(悪い意味で)行動だと思うからです。

最近はあまり傲慢に生きることが出来ていないのでより傲慢に生きたいと思います。
人間歩くだけで傲慢と言えば傲慢だと思うの。歩いていいッなんて思ってるんだから、つまり考えるだけ無駄です。そうやって自分に言い聞かせていきたいなあ~と思います。

僕は優しく生きたいんですけども。だって自分が優しくされなかったら哀しくて泣いてしまうではないですか。なので期待が理由ではなく選択が理由として優しく生きたいです。優しいというのは自分を食っていただく選択をするという意味ではなくてね。それは優しさではなく脅迫ですから。

話を戻します。

正直に生きるためには、毎日3回朝昼晩、自分の行動を10分以上時間をつかって考えて、後悔したことがないか考える。あればその場で正す(修正する)ということがよいと本で読みました。これって素敵だなあと思ったので、本日からやってみています。
でも誰かを殺さなかったことを後悔したら、どうすべきなんだろう。うーん、やはり殺すのが正しいのだろうなあ。それが1生後悔しない確信と根拠と思想があるならば。
でも、殺したいに至るには様々なことがありますから、やはり結論が殺すこと、になることはなかなかないのですよね。その前に、プロセスがあるはずだから。だから1日3回なんだろう。
そうして考えると、人間みんながみんな自己満足のためだけに行動し生きていると、ほんとうはとっても平和になるのでしょうね。

多くの争いと憂鬱と険悪は、傷つきたくないと思いすぎる高すぎる自尊心、自分を通常より大きく見せたいとかの見栄、そういった、「ほんとうの本心の上側にある余計な雲」が原因で起こりうるのでしょうね。だから本当はこの世界はのんびりした良い人ばかりの良い世界だと思います。
もし誰かと険悪なとき、それはわたしが、全身でのほほんと自己満足のために行動出来ていないのだ。感情に嘘をついているのだ。或いは、他人を自分が動かせると誤解しているか。
「お前は嫌いじゃないがお前のその行動は嫌いだ」と言ってまわるほうが、本当は優しい世界への近道の気がします。といって、実践して、殴られても僕は責任はとらない(世の中には言い方というのがあって……)



--------


話がずれますがマリアとウテナの共通点は非処女であることです。一般的に処女こそ聖母および優しさの象徴として描かれがちですが、女性の母性たる優しさを表現するには母でなくてはならず母であるには非処女でなければならず、処女というのは慈愛であるとか聖母的優しさというよりは、清純なる凶器といいますか、残酷性と合わせたほうがしっくりきますね。セーラー服の少女にはやはり子供たちよりかは死体などをあわせてみるほうがしっくりくるのはなぜでしょうか。それよりは少年の処女性というか童貞性のほうがずいぶんと美しく見える気がします。

ウテナの某シーン(クソあきお)ではトイレにかけこんで号泣しましたがよくよく考えると処女の主張する美しさなどちゃんちゃらおかしい夢物語でしかなく強さ美しさのかけらもないといえばない。

マリアはマリアで処女のささげ方が最高に素晴らしい。そういう処女のなくし方というのは現代で日記風に誰かが書けばずいぶんと馬鹿にされたりするのだろうけれど最大限に高潔な感じがするからみんなマリアが好きなのではないでしょうかね、ただ皮肉なのはマリアのやさしさや慈愛は救うべきものは何も救えず利用されるのみで終わっているということです。

しかし、救えたか救えなかったか或いは救ったものが悪だったか善だったかで判断するのはなによりも愚かしいのだろうと思います。そこにむなしさを感じてやはりこんなもの無駄であるなあと思うのは少なくともただしべナ、ではないのだろうと思います。マリアは慈愛とは最大の自己満足ということを体現している大好きな少女です。これ、読んでない人には酷いネタばれになりえそうですが案外ストーリーには関係してないので大丈夫です。多分。

処女性というと、10代少女ばかりイメージしがちですが、ザワールドイズマインの新井英樹氏の最新作 空也上人がいた、もまた、マリアとはまったく別のかたちで処女性を描いた美しい漫画でございました、この両方の価値観があることが大事と思いました。
つまり何でも正しいということなんだけれど。大事なのは自分の行動や思考の根拠を「なんで?」と言われたときに、答えられるのかどうかということなのだろうな。たとえ言葉が拙くても、感覚だけのことだったとしても。

個人的には実際結婚するまで処女というのは素晴らしい尊いと思うタイプの方ですし、女性によくみられる自傷行為の現象は自他ともに観察してみたところ不愉快な性行為によって行われるものと言って差し支えないかと思いますので、女性の方々はまだ処女であるならばできる限り処女性というのは大事にして悪いことはないかと思います。納得が大事です。もう処女でない場合には、これから先納得をするように生きていけたらいいのかなあと思います。何を言ってんだハァ(なんか上で非処女賛歌しているように見えたらいやだなぁと思って…処女賛歌してるわけではない…選択のプロセスの話なんです)
純粋に思想的にやはり処女か処女じゃないかというのは女性や自身の性質とか精神性と言うかそういったものを考えてみるにあたって言及すべきところだと思うんだけれどどうにも言葉にすると気持ち悪いのはなぜですかなぁ(困惑)

0 件のコメント:

コメントを投稿