2015年6月17日水曜日

玉ねぎの心をむきつづけて、何もなくなるまで!

*6月5日記載(下書きのまんますっかり更新を忘れていました)

 誰かと話していて「わたし数学が好きです」と言ってもよいであろう人というのは、計算が早い人じゃなくて、公式をつぎつぎに考え続けている人ではないのかしら。という話をしていたら、誰かの本にも同じことを言っている人がいて、ホッとしたりするくらいには、細胞の存在意義を疑っています。
 かといって、逆のことが書いてあったからといって、アポトーシスが発動するわけではないのですが……(((*^0^*)))
 ホリエモンがどこかで「情報に価値はない」と言っていました。情報に価値がないことは感受性や想像や解釈や経験の優位性を持たせてくれます。もっと情報は価値が無くなるべきです。素晴らしいことです。

 先日はカマチさんのところにお邪魔しました。水のさんと偶然お会い出来て、水のさんの倉庫を見せていただきました。なんとも摩訶不思議かつ個性的な空間で、そこにあふれる一貫した愛にとてもあたたかさをかんじました。おいて合ったものは、半分ほどは卑猥で、もう半分ほどは神聖すぎるもので、とても日常生活にあれだけの数、置かれていることは無いと思います。
 「愛しているものの空間」って何て素晴らしいのだろう、と思いました。それらの多くは一般的には昔のおにいさんたちの夜のおともであっただろうもので、一見ふつうの姿をした和風人形、それを持ち上げて下からのぞき見ますと、女性の恥部が詳細に表現されているというもので、その素朴さや生々しさと、「行動しなければ見えない」奥ゆかしさはたいへん素敵に感じました。
 たかだかちょっとニュースを開いただけでまったくお呼びでないというのに平気でぼくらの視界を占領する様々な性的な広告がはびこるいまをいささか残念に思いました。
 カマチさんとも恥ずかしながらたくさんお話をしてというか聴いていただいて刺激的でした。やさしさ!

 正しさのゆうれいはいつも僕へすり抜けたりおいぬいたりして、僕が飛ぶことのできない窓辺から平気で飛び立ってしまいますが、ぼくはそれを追いかけて飛び降りたいわけではないのだと考えることが出来ました。
 ぼくたちのこころはいつでも玉ねぎと成っています。欲望や願いや希望というこころのうちにある様々は、外部の空気による酸化を防いだり、傷をふせいだりするために、中心の欲望に沿って、いつだって何重にも重なっています。
 たったひとつの想いでさえ、本当にそれが中心の思いなのかどうかは疑わしいものです。
 大事なことは、玉ねぎをむいてむいてむきつづけることだと気をつけて生きていきたいです。
いつだってわかってはいるんだけれど、中心の芽ではなくて、そとの皮ばかり拾ってしまうのです。でもそれは真実ではないのだ。
 今日も生きて明日も僕は生きたいと思いますが、それに必要なことは、玉ねぎの中の「ほんとう」、「ほんとうにおもうこと」をひたすらに探し続けることと、ぼくはぼくの細胞にだけ決めて、それを食べたいと考えます。


 しかし、今思いました。”ほんとう”はいつだってうつろいかわります。ほんとうは、嘘ではありませんが、過去になることはありえます。
 毎回毎回たまねぎをめくりつづけることをおこなってからほんとうをさがしていると、時と場合によって、過去の”ほんとう”をだきしめてしまうこともあります。
 そうしたら、たまねぎが成長するまえに胃の中へいれることも大事ではないかしら??
 過去のほんとうは、嘘ではないけれど、ほんとう、ではありません。

 けれど、過去のほんとうは、いまのほんとうへつながっているから、やはりどちらでもよいかなとも思ったりします。

 だいじなことは、どういうお洋服を着てどういう靴でいるとあの光が流れ落ちてくる竹やぶの中で座るとき気持ちが良いのかしら、ということなのかもしれません。

 そういえばお寺に行く機会がありました。そこは「そとのせかい」よりもあまりに優しすぎるというか、意地の悪さというようなものが存在しない世界でそれは心地よい世界でしたが、や、そもそも、そとのせかいだとおもっているものは、ぼくの思い込みなのだと反省することができました。
 ぼくはたまに、こんなに意地悪くならなくてもいいのじゃないないかしらと、自分や、自分を取り巻く世界を見ていて思います。
 これはインターネット世界に慣れてしまったぼくたちの哀しさなのでしょうか、ぼくたちはいつだって、意地の悪い受け取り方をすることにずいぶんと慣れている気がします。
 そうしていつしか、発する時も、意地の悪さを想定するようになってしまっています。
 その循環が生み出す世界は、ぼくはあまり幸福なイメージを持つことができません、みなさんはかがですか。

 さんざん意地の悪さを露呈しておいてそれはないんじゃないか、といわれても、気分よく朝目がさめて、自転車で数十分ばかし走って帰ってこれた日くらいは、まる一日誰へも意地の悪さを向けない日があってもよいのではないかなあ、翌日になったら、自分のくだらない自尊心が傷ついたことを流せないで、一日当たり散らす程度の弱さがどうせあるのだし。
 
 お寺の話に戻ります。3泊させていただいたお寺には、本堂の裏手、少し山をのぼったところに宿泊用のログハウスがあり、中へ入ると机といすが4つほど、さほど広くない6畳くらいの空間の壁3面にずらりと本棚が並べられ、本棚の中にはたくさんの本が置かれています。
 どんな本があるのかしらと眺めてみますと、やはり臨済宗についてですとか、仏教についての本が多く置かれています。また、精神世界の本ですとか、そういったものもやはり多い印象です。なぜかバガボンドなんていう漫画も置いてあったりなどして、バリエーションはかたよりつつも豊かです。 
 そのなかに一冊だけ宮沢賢治の本がありまして、ふと思い立って裏の森をせっせとのぼって、少しひらけたところで腰掛けて、1人で音読なんていうことを行いました。ずうーっとやってみたいなあと思いながらも、誰かに聞かれたら飛び上がるほど恥ずかしいと、機会と環境を得られず行っていなかったことです。
 
 時間帯はお昼を過ぎて、太陽は真上から少しかたむいたころで、右手の竹やぶはちょうど山をくだってゆく斜面となっていて、太陽の光もやんわりと入りこんできます。
 そちらから入ってきたきらきらは、左側ののぼってゆく斜面へと吸い込まれて、みどりもあんまり見えない茶色い影へと変わってゆきます。その間のところどころ石で階段なんかが丁寧につくってある様子の、けれども頻繁に使われていないからか落ち葉だらけの道を、ぼくは運動音痴なのでサンダルでちょこちょこすべったりして、せっせとゆきました。一足ふむたびに思ったよりも落ち葉が沈んで、どこからか静かに休んでいたか獲物をまっていたかどちらかの蚊が、ブワ!と喜んで僕のほうに来ます。まあ、文明の機器、機器じゃないけども、虫よけスプレーなる(50歩で消えない)アイテムを装着済みですから、幸いほとんど噛まれていません。

 そうして登っていくと、「これより先はイノシシが出るため、行き来の際、網をきちんと締めてください」などという看板のある門のところまでつきました。そこは切り株をまわるように右手に引き返して降りて行くような別の道が続いていて(あるいは、上ってくる別の道ともいうのかしら)、現代人的癖が抜けない僕は切り株の一番スミの、虫も土も草もなさそうな一番きれいそうなところにぎりぎりに腰掛けて遊びました。
 そのあたり、どかーっとすわったり寝転んだりなんていうワイルドなことが出来ない自分がなんともみみっちく感じます!
 ま、これを静岡に帰ってもたびたびやれたら、そのうちなんかいいことがあるんだろうなあとおもったけど、とてもやる気にはなりません。けっこうな山だらけの地域なのですが。。
 やっぱり、環境が新鮮というのは何かを行うのに最適な条件の一つなのでしょうね!

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