2015年8月8日土曜日

8月6日、8月7日 ぼくはひととしゃべりたくない

8月6日

スノドカフェで働いておられる曽布川さんにお誘いいただき
浜松は鴨江アートセンターにて行われたアートバザールで演奏してきました。

ソロでのお誘いで、アコースティックベースを一つ持っての演奏でした。

浜松は、いつ行ってもそうなのですが、駅前からすでに賑やかです。
ただ移動交通の通りゆく場所ではなくて
何らかのスペースとして色々な方が駅を利用されています。

公的な、おそらく市で開催されたあるいは関わっている大きなイベントも
しょっちゅうやっているし、
お花が売られていたり、動きません、というパフォーマンスの方がじっと立っておられたり、
ギターで弾き語る青年などがいます。
また、イベントや、あるいは何らかの主張のチラシを配布しておられる方も居ます。

それを横目で眺めていく人々も、それらを景色として処理するのではなく
意外に反応していたり、しっかり拒否したりしていて、とても楽しいです。

この日は、帰る頃(夕方五時頃)袋井で開催される花火大会の切符を買うためだけの行列が大変長く伸びており、
とても驚きました。
浴衣姿で かわいくおめかしした少年少女が、ずらりと並んでいる様はなかなか素敵でしたが、切符を買うのに、駅の外まで行列ができるというのは私には見た事のない光景だったため、大変驚きました。

アートバザールは、昔は消防署そして警察署だったという建物、アートセンターという
名前からして素敵なところで行われています。
建物中とても賑やかに飾り付けされており
様々な方が出店をしたり、イベントを開催したりしています。
美味しい食べ物や、或いは野菜なんかも売っていたり、子供たちを募っておもちゃをつくるとか、調味料!を作ってみるスペースや、郷土の資料
或いは参加される方が持ってこられたおもちゃを自由にさわって遊べるスペースで子供達が自由に遊んでいたり。
建物は白塗りの壁がきれいな ワンフロア、ワンフロアの天井が高く気持ちの良い空間で
音がとてもきれいに響いていくところです。

到着してすぐ、その子供達の多さに大変驚きました。
みんなおそらく初対面だろうに、お互い喧嘩したり或いはあえて干渉せずにだったり
同じ空間で自由にその場を楽しんでいます。
近くには親御さんが、また親御さんのペースでアートバザールを楽しんでおられます。
(子供の目を引くものや 楽しいものが多いから、ずっと構わずとも、子供が遊べるのだと思います)



話を変えます。

先日、7月31日、御殿場ノスタルジアでアカシックレコードさんの企画”怪談でナイト”に出演させていただきました。
この日もアコベースを持って、弾き語りをしました。
このノスタルジアにはチャイルドスペースがあって、その日も何人か、出演者さんやお客さんの子供さんがそこで遊んでいました。
そこで、一人の少年がとても気持ちよく床を叩いていて、楽しそうだなあと思った僕はつい適当にベースを一緒に弾いて遊びました。
少年はマイペースに遊んでいたのですが、時間が経った後、床を叩いて、さっきのことをやってください、同じ事をやってくださいと言いました。
僕はさっき何を弾いたかしっかりとは覚えていなくて、焦りながら同じカナ〜と思うようなものを弾いたら、楽しそうに笑って、何度かそれを要求してくれました。

僕はそれがとても楽しかったです。

僕は、子供に大人が何かさせる、というのが、あまり好きではありません。
なぜならば、子供というのはとても聡くて、ずるくて、卑怯で、寂しくて、愛しい生き物のため、大人の要求を”読む”ことに必死になって、それへ応えるか、それを否定してやるかのどちらかに頭をフル回転させるからです。あるいは、興味のないまま、”おこさま”を大人のために優しさでやってくれたりします。
違いますか?僕の子供時代がひねくれていただけでしょうか?でも今でも子供と大人の図を見ていると多分そうだろうと思ったりします。

だから、自分はその子と一緒に何かやってみたかったけれど、それが強制になる気がして怖かったのですが、不思議とその子は「この少年はマイペースを崩さず、自分の好きなように反応してくれるだろうな〜多分嫌なら、やめてよって言ってくれるだろうな〜」と思わせてくれる素敵さがあったため、つい、調子にのったのでした。

その結果が、少なくとも彼を何か制限したり コントロールしたりしてしまうものではなくて、背景かあるいは刺激として、多分それが悪くないものかなあと思われる結果で 僕は、結構な楽しさを、”僕が”感じました。

なかなかひねくれているので、偽善的かなーと帰宅の電車後も思いましたが、自分はなぜパーカスを持ってこなかったのかなーと悩むほど、楽しい時間でした。



話を戻します。

何かを行うことが楽しい、とは一体何かと考えます。
あるいは何かをやってみたい、と考えてから、それを行動に移すことと移さないことの差とは何かと考えます。
(評価などといったものではなく)成功体験がなくても、人は何かを行い続け、楽しいと思いつづけることができるのかどうか、と考えます。

アートバザールについて最初に思ったのはそれでした。
自分からおもちゃを楽しそうに触る子と、そうでない子の違いはなんだろうと考えます。
引っ込み思案、人見知り、お調子者、お姫様気質、その差はなんだろうと思います。
単なる生まれつきや、一人っ子であるとか、兄弟がいるとか、そのようなことだと思います。
でも、たまに、多分、自尊心がそれらに関わっている、と考えることがあります。

僕は小さいころは、どんなおもちゃも奪い取り、前にそのおもちゃで遊んでいた子を苛め抜き、泣き叫びわがままに一人で遊ぶ子でした。3歳とか4歳とか 少し大きくなってからは、友達の取り合いもするようになりました。
自分のものではないということや、自分がコントロールできない、ということに異常に執着する子でした。引っ込み思案ではまったくなかったと思います。

少し大きくなると、無気力とも言える引っ込み思案に変質しました。じーっと影のように教室に座り、ぼーっと窓を見ていたり落書きをしていたり、そのような子でした。
「何かをやってみましょう」で、たとえやってみたいと思っても、手をあげたりしたことはありません。おもちゃのあるスペースで、遊んでみたいと思っても、そのおもちゃを手に取ることはなかったと思います。
親はそれを心配してか、あれをやってみたらこれをやってみたらと、結構色々やらせようとしたように思います。一つもダメだったと記憶しています。

そんななかで、一つだけ、絵だけは勝手に自主的に描いていたので 絵を描けと言われたことはありませんでした。
小学校に入る前とか、入ったころとかそれくらいのとき
描いた絵を、父が、一度 すばらしい絵だ 額にいれて飾ろうといって飾ったことがあります。
妹と母と父とわたしの絵だったと思います。ひまわりが四つならんで顔がついているのです。それだけです。
わたしはその後、絵を描くことが大好きになりました。



鴨江アートバザールで最初に目に付いたのは、音の出る楽器で遊ぶ少年少女でした。
その時は小林直樹くんが演奏をしていたのですが、彼の演奏にお構いなく、
たいこや 音の出る笛を自由にならしたり
かと思えば遠慮がちに弾いたり
僕はなんだかそれがとても楽しそうに見えました。
とても本質的に自由であるように見えました。

7月31日のことを思い出しました。
音楽は、他の創作と少し違う楽しさが一つあります。
「本質的に自由」であることが、とても重たく価値を持つ瞬間があります。
逆に、コントロールされ、作りこまれたものもすばらしいです。
でも、全く何も自由に好き勝手にやっても、楽しいものがあります。
それは、音楽それそのものが、特殊な会話的要素を持つからだと思います。

すべての創作は、芸術、というよりは、言語に近いのかもしれない、と思います。
「絵をつかった論文」「音楽をつかった議論」「文字をつかった映像」「音楽をつかった遊び」「絵をつかった主張」があります。
「絵」「音楽」「文字」これら”そのもの”は、そのままでは芸術ではありませんし、創作でもないのではないかと思うのです。
 
そしてこのなかで、音楽は複数人の会話や議論や創作をしあった「結果」が、また一つの創作になるという二重性が、とても強いです。
それは、絵や文字が「一人が出して完結して、それがやりとりされて会話や議論になり、あるいは表現になる」という点と大きく異なることです。
音は出た瞬間から空気に溶けてきえていきます。その刹那性の持つ特殊さだと思います。
だから、会話の要素が、とても大きい気がします。もちろん、だからこそ、、、、その会話を、一人きりでやるのも、逆にとても面白く聞こえます。

とりあえずは息をして、生活をしている限り、社会つまり他者とのつながりというのは必ずうまれてきます。そしてだいたい、いまのじだいの人間さんは、たぶんだいたい言語をつかってコミュニケーションするわけですが、ぼくはこの、言語を使用するということが本当に本当に苦手です。言いたいことはうまく言えず、言うつもりのなかったことを言って無意味に傷つけたりの連続です。
 
人とのコミュニケーションや世界とのコミュニケーションに置いて、自分のダメさにしょっちゅう失望している僕にとって、
また先述の、大好きだった絵さえ投げ出してしまった何もできない僕が、唯一音楽だけ楽しくやっているのは、
どんなに失敗しても、、楽しく死ぬまでやるだろうなあと思っているのは、それが単なる言語であるからです。間違えても、最悪つまらなくはなっても、だれもかなしくて泣かない言語だからです。
お話することができる、幸せがあるからです。

0 件のコメント:

コメントを投稿